福岡甲南会の沿革

戦後の学制改革(前野相談役寄稿)

私共の生活・人生、は終戦記念日を境に大きな変化を余儀なくされました。殊に学生生活は目まぐるしい変革の嵐の渦に巻き込まれました。即ち、占領軍による学制改革により、光輝ある県立二中と二高女は合体し新制甲南高校へと変身を余儀なくさせられたのであります。その間の実情をわれわれの大先輩である増田静氏(二中 大正5年卒)が本会30周年記念号に贈られたご挨拶文から抜粋掲載させて頂いて見よう。

『終戦後の学制改革で、従来の中学校が新制高校」になった際、鹿児島市内の五つの県立校は、一つの総合高校として発足、各校は一部、二部、・・・・・五部と呼称される事になった。
従来は創立の順位で付けられた名称であったが、それが何かと誤解を招くおそれもあったようで、当時県議会の文教委員であった私は、工業を一部、二高女を二部、1高女を三部、二中を四部、一中を五部とする様、三井教育長に進言したが、その通り採択された。次いで男女共学制が実施される事になった。
私は市議会議長をやっていたので、池松教育長と相談して、鹿児島市は普通科の二校を合併、商業と女子興業を一緒にする事を相談していたので、その事を三井教育長に伝えた。県立の場合男女夫々二校があるので、それを如何に組合せるかを三井氏も苦慮して居られた様であった。
当時は多数を集める建物が不足であったので、市議会場に、二、三、四、五部各部から、五名宛の代表者に集まって貰って意見を聞くことにした。当日は、県教委の職員が男女共学実施について説明した後、生徒達の意見を求めた。三部と四部の生徒は反対を表明したが、戦災で校舎を焼かれている二部と五部の生徒は黙っていた。
後で結論を県教育委側と相談したが、私は校舎が焼けたもの同志組合せる事は出来ないから二部と四部、三部と五部との組合せがよいのではと提案し、その通り実施が決った次第である。

甲南の名前は、甲突川の南に在る事から、付けられたものである。』

以上で混沌から統合に向かった鹿児島市内校の変遷の様子が窺われる。

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